躊躇い ページ34
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Aは、人間がこんなに命からがらで助けを懇願するシーンは、映画やドラマでも見たことがなかった。いや、もし似たようなものを見たことがあっても、こんなに怖い思いはしないだろう。ばたりと近くで倒れた血塗れの男が恐ろしくて、思わず仰け反った。
「クハハ⋯⋯。」
まさに死屍累々の場で、ゾムは楽しそうに笑っている。簡単なゲームをクリアしたときみたいな喜びや、相手が弱くて歯ごたえがなかったと嘲るような、そんな感情の滲んだ声だった。
一応確認してみると、息はしているようだから死んではいないのだろう。あまりに傷が酷く、明らかにやりすぎではあるが。
Aは、夢から覚めたような気分だった。ゾムは、今となってはAのことを揶揄ったり、軽い口喧嘩のようなものをしたりするようになったが、最初見た時から恐ろしい人だった。
忘れつつあったのだ。彼だって、紛れもなくヤクザの一員であるということを。感覚が麻痺していたのだ。彼は、Aとは生まれも育ちも何もかもが違う。普通の人ではない。人を殴ったり、痛めつけたりすることに、一切の躊躇いもない人だ。
「お嬢、大丈夫?」
思い出したように向き直ったゾムは、Aに向かって手を差し出した。見なくてもわかる。その手の甲には、誰のかも分からない血がべっとりとついている。
「あ⋯⋯。」
Aの口の隙間から、小さな音が漏れた。視線が、彷徨う。Aは、ゾムの手を取ることが、できなかった。
「だ、大丈夫。」
震える脚を無理やり立たせて、スカートの汚れを払った。ゾムは、そのときどんな顔をしていたのだろうか。顔も見ないまま、路地を出る。そこには、溶けたアイスがソーダ色の水溜まりをつくり、それに列を成すように蟻が集っていた。
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作者名:月出里 | 作者ホームページ:https://mobile.twitter.com/home
作成日時:2024年3月12日 22時