動転 ページ26
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「ん〜?」
こんなに邪悪な笑顔は見たことがない。きっと鏡を見て練習したってそう簡単に習得することは出来ないだろう。滴る汗を拭って、足下近くの斜め下を見る。
「ぞ、ゾムさんのことが好きだから、かな⋯⋯あはは⋯⋯。」
Aは、自分で言っておきながら、自分が何を口走ったのか、全くと言っていいほど分かっていなかった。あれ、いま私なんて言った?脳内で少し巻き戻してから再生する。"ゾムさんのことが、好きだから?"
気が動転していたとはいえ、とんでもない事を言ってしまった。そう気付いた時にはもう遅い。誰がどう見ても間違えた。もう意味が無いのに口に手を当てて後悔していると、ゾムは大きな声で笑い出す。お笑い番組でも観ているみたいにお腹を抱えて、声高に笑っていた。
しばらく笑っていたゾムがくるりと後ろを振り返り、物置の木製の引き戸を突然開けた。あまりに突然だったものだから、眩しくて思わず目を細める。未だ震える産まれたての子鹿のような脚のAに、降り注ぐ外の光を背にしたゾムが言った。
「ほら、行くで。」
その声色は今までにないくらい優しくて、もし兄がいたらこんな感じだろうか、と兄弟のいないAは思った。引きずり込まれたのはこの男のせいなのに、しょうがないなぁと言わんばかりの口ぶりに、そんなこともすっかり忘れてついて行く。
口走ってしまった好きだから、をゾムがどう捉えたのかは分からない。しかし、Aは少なくとも嫌がられたり、怒られたりしなかったことに安堵したのだった。
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作者名:月出里 | 作者ホームページ:https://mobile.twitter.com/home
作成日時:2024年3月12日 22時